鉄輪の路地を歩いていたら、側溝から白い蒸気がもわっと立ち上がっていた。眼鏡が一瞬で曇る。前を歩いていた人も同じタイミングで立ち止まって、レンズを拭き始めた。
二人とも何も言わない。でも、ちょっと笑った。
大分は出会いがない。別府でも由布院でも、同じ台詞を聞いた。観光客は多いのに、地元の人は同じ顔ぶれの中で生きている。
地獄めぐりは、待つ時間が長い
眼鏡が曇ったときの、失礼
透さん、二十九歳。海地獄のコバルトブルーの前で、共通券のスタンプを隣の人と同時に押した。九十八度の池は絵みたいで、みんな言葉が少なくなるそう。
鉄輪の地獄蒸しまで歩いて、卵の茹で加減を教え合ったらしい。
彼が覚えているのは色じゃなく、蒸気で眼鏡が曇ったときの、失礼、という一言。何気ない言葉ほど残る。狙った台詞はだいたい忘れられる。
三十分おきの噴出を待つ列
奈津さん、二十七歳。血の池地獄の赤を夕方に見て、人が少ない時間帯だねと隣の人と笑い合った。すぐそばの龍巻地獄は噴出が三十分おきで、待つ列が自然にできるそう。
白い湯が天井を突きそうになる瞬間、肩が揃う。
間欠泉より、待っている間の硫黄の匂いを残している。同じものを待っている人間は、それだけで共犯になる。動けない三十分が、会話を作るのよ。
手形の紐が絡まった
慎太郎さん、三十八歳。別府の温泉道で、一日何湯かはしごする手形を首から下げていた。路地の足湯で同じ手形の人と、観光は別府で滞在は由布院だよね、と分かれ道の話になったそう。
湯けむりの町は坂が多い。息が揃うと会話が始まる。
源泉より、手形の紐が絡まったときの、どうぞ、を覚えている、と。同じものを首から下げている人同士。あれ実質、会員証じゃん。話しかけやすさが段違いなんだよね。
霧と湖と、静けさの町
霧が切れるまでの時間
梨花さん、二十五歳。金鱗湖の朝霧に、由布岳が溶けるのを見て足を止めた。同じ木道にいた人が、霧が薄い日は湖が普通になるんですよ、と小さく言ったそう。湯の坪街道まで同じペースで歩いて、牛乳とだんごの列でまた隣になった。
湖面より、霧が切れるまでの静けさを残している。
喋らなくていい時間を一緒に過ごす。あれ、私はけっこう信用している。沈黙が痛くない相手かどうかが、そこで分かるから。
袋の持ち手が重なった
将吾さん、三十四歳。湯の坪街道で、店が開く前のシャッターを撮ろうとして、別の人とタイミングが重なった。食べ歩きは昼前が長くて、一つ買うたびに隣の袋が増えていくそう。
由布院は観光重視より滞在の湯、と別府から来た人に言われて、宿を一本ずらしたらしい。
スイーツより、袋の持ち手が重なった感触を覚えている、と。手に持っているものが増えると、人は少し無防備になる。
坂を下りきったときの息
美月さん、三十一歳。狭霧台から由布岳を撮って、登山口まで下りる道で地図を開いている人と並んだ。渓谷と湖と地獄を一日に欲張ると、車の窓で声が短くなるそう。
志高湖のキャンプ場で水を分け合って、次は別府の地獄だと分かったらしい。
山頂より、坂を下りきったときの息を残している。息が上がっている状態って、取り繕えないじゃん。あの無防備さが壁をがっつり削る。
県北は、湯けむりが薄くなる
桜が散る音
達也さん、四十六歳。日出城址の石垣から別府湾を見下ろし、桜と海が重なる季節に来てしまった。同じベンチにいた人が、心が整うのは数字より風ですね、と呟いたそう。関アジの店まで一緒に下りた。
県北は湯けむりが薄い。海の話が長くなる。
石垣より、桜が散る音を覚えている。はらはらと落ちる音って、静かじゃないと聞こえない。それを二人で聞いていた時間。
砂利を踏む音が揃った
陽菜さん、二十八歳。宇佐神宮の楼門をくぐって、二礼二拍のタイミングが隣の人と重なった。八幡総本宮は観光バスが多くても、奥の森には人が残るそう。
国東半島まで足を伸ばす話になって、バスの時間が同じだったらしい。
本殿より、砂利を踏む音が揃ったことを残している。じゃり、じゃり、と同じリズムで歩く。歩幅が合う相手って、思っている以上に貴重だと私は確信している。
一段の高さを覚えている
晋平さん、三十五歳。国東の石段を上って、磨崖仏の前で水を飲んでいた。六郷満山の山は案内が少なく、地図を開く場所で人が止まるそう。
別府から来た人と、湯の県の湯がない顔ですね、と笑い合い、下山の道が重なった。
仏像より、石段の一段の高さを覚えている、と。案内が少ない場所ほど、人が地図を広げる。困っている人同士は自然に集まるんだよ。
すれ違いの、お先に
裕介さん、四十歳。中津の耶馬溪で、青の洞門の狭さに肩をすくめた。対向から来た人と、一人ずつですね、と目が合って、抜けたところで山国川を見下ろしたそう。
県北の渓谷はバスが少ない。洞門の先で人が残る。
石壁より、すれ違いの、お先に、を覚えている。狭い場所は譲り合いが発生する。あそこ、実は最大のチャンスなのよ。
川と湾、水のある町
川面に落ちた葉の速さ
楓さん、三十歳。日田の三隈川沿いを歩いていて、水郷の風で帽子を押さえた。隣にいた人も全く同じ動作をして、うなぎの店まで並んだそう。
日田は別府とも由布院とも違う。川の音が会話を遅くする。
橋より、川面に落ちた葉の速さを残している。同じ方向を見ながら、同じ動作をした相手。それだけで、もう他人じゃない。
猿が餌を待つ目
亜美さん、二十三歳。鶴見岳のロープウェイで、紅葉と別府湾が同時に入る窓側に座った。下山してうみたまごまで足を伸ばす人と、高崎山の猿の話になったそう。
別府は地獄と動物と山が半日でつながる。
山頂の風より、猿が餌を待つ目を残している、と。動物がいる場所は反則。指をさす対象があるだけで、最初の一言が勝手に用意される。
湯気と油が混ざる、夜の別府
レモンを渡した手
さやかさん、三十二歳。とり天発祥の店で、衣の薄さを隣の人と同時に褒めた。別府駅前は昼飲みの店が多くて、次は海鮮だと地図が広がったらしい。
地獄めぐりのあとの揚げ物は、湯気と油が混ざる。
衣より、レモンを渡した手を残している。ものを手渡す瞬間って、指が触れるか触れないかの距離になる。あれ、地味に効くんだよなぁ。
蒸気がある夜景
亮介さん、四十二歳。別府タワーの足元で、夜のネオンと湯けむりが混ざるのを見ていた。グローバルタワーから戻ってきた人と、坂の夜景は長崎と違う、蒸気があるよね、と同じ感想を持ったそう。
冷麺の店まで歩いて、麺の太さで笑った。
展望台より、タワー下の風の温度を覚えている。湯けむりが混ざった風って、ほんのり生あたたかい。他の県では味わえない夜。
発車前の、どちらまで
律さん、二十六歳。大分から長崎へ向かうバスの隣席が、たまたま顔見知りだった。長い車窓があっという間になって、別府の湯けむりと長崎の坂を一本の話でつないだそう。
県境をまたぐバスは、初対面でも距離が縮む。
座席より、発車前の、どちらまで、を残している。まだ動いていない車内って、なぜか人が話しかけやすい。
大分で声をかけるときの順番
次の行き先を、番号より先に置く
体験談を並べて笑ってしまった。全員が次の場所を口にしている。次は別府の地獄、次は海鮮、国東半島まで、関アジの店。
いきなり連絡先を求めると警戒される。当然でしょ。でも、そこ一緒に行きませんか、なら断られても軽傷で済む。大分は行き先の在庫が全国屈指。湯と海と渓谷と山が全部そろっているから。
待ち時間のある場所を選ぶ
三十分おきの間欠泉、霧が晴れるまでの湖、ロープウェイの列、貸切の空き時間。大分の出会いは、待っている時間に集中していた。
歩き続けている人は誰とも会わない。立ち止まる理由を持っている場所へ行く。それだけで確率が変わるって。
同じものを首から下げる
湯めぐり手形、共通券、ロープウェイのチケット。同じアイテムを持っている人には、話しかける口実が最初から用意されている。
どこ回りました、と聞くだけで会話が始まる。これ、大分だけの反則技だと思う。使わない手はないっしょ。

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